聖霊に完全に服従する | 御言葉の実在

2025年8月21日(木)聖霊に完全に服従するBe Completely Yielded To Him 「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神のことばを語ったのだからです。」(2ペテロ1:21) 聖霊に服従すると、聖霊はあなたを励まし、あなたの行動と言葉を導かれます。私はそのような体験をした最初のあかしを覚えています。聖霊を受けた後、家に帰ったその日、私はいつもの家族での礼拝に集まりました。普段通り、それぞれが聖書の節を読み、その後、父が祈りをリードするか、私たちの一人にその役目を任せる形で進められました。 その日、聖書の朗読が終わった後、父は私の方を向いて祈りをリードするように言われました。私が祈りを始めようと口を開いた瞬間、突然、異言の言葉が飛び出しました。それは大きく、速く、私は聖霊に圧倒され、預言し始めました。家族での祈りの時間では、そんなことは一度もありませんでした。別の機会には、私は教会の後の席に座っていました。当時、私はまだ若く、10代でしたが、集会の最中に、神の御霊が私の内に火を点けるのを感じました。気づけば、御霊は私を立たせ、私は異言で語り、預言し始めました。教会全体が静まり返りましたが、誰もが感動し、励まされました。私が終わると、主任牧師が会衆全体を激しい祈りの時間に導きました。 神の御霊があなたを動かすような瞬間があります。預言者エゼキエルは言いました、「しかし、霊が私のうちに入り、私を立ち上がらせた。…。」(エゼキエル3:24)あなたは聖霊と共に、そのような栄光に満ちた瞬間を毎日体験できるのです。鍵は、自分を聖霊に服従することです。あなたの中にある聖霊の火は常に燃え続けています。聖霊はあなたの内に、そしてあなたと共に永遠にいるのです。 ヘブル13章5節で、主は言われました。「…わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そしてマタイ28章20節(NKJV)でも言われました。「…見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」あなたが福音を伝えるために、病院、刑務所、市場に行きたいと衝動を感じたなら、それは聖霊があなたを動かされていたのです。あなたがクラスメート、隣人、職場の同僚、家族、そして道で出会った見知らぬ人々に福音を伝えたいという思いが湧いてきたなら、それは聖霊があなたを動かされたからです。 これが今日、あなたの人生における聖霊の働きです。聖霊はあなたが父の御心に従って語り、行動する力を与えてくださいます。あなたが聖霊に完全に従う時、聖霊の力と知恵があなたを通して現れます。あなたは、この地上で主のご計画と目的を成就するための聖霊の器なのです。 祈り愛する父よ、私の中に住み、大胆さと力を持って主の言葉を語るように私を動かす聖霊に感謝します。私は常に聖霊の導きと神聖の啓示に服従し、キリストにおける主の完全な御心と私の召命を成し遂げるために常に動かされています。イエスの御名によって祈ります。アーメン。 参照聖書(エゼキエル2:1-2) その方は私に仰せられた。「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。 (エレミヤ20:9) 私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。 (使徒 1:8 AMPC) 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力[能力、卓越性、権力]を受けます。」

何も私達を止めることはできない | 御言葉の実在

2025年8月20日(水)何も私達を止めることはできないNothing Can Stop Us 「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(使徒28:30-31) 教会とイエス・キリストの福音に反対する者たちがいます。彼らは反キリストの霊を持つ人々です。彼らは神の真理を沈黙させ、真理を大胆に宣べ伝える者を妨げる策略を練っています。しかし、私たちは黙っていられません。福音宣教の必要性が私たちに課せられています。(1コリント9:16)福音は余りにも尊く、喜びは余りにも大きすぎて、私たちだけで抱えておくことはできません。 敵の怒りがどうであれ、関係ありません。いかなる悪法、脅迫、システム、悪しき構造など、何物も私たちを阻むことはできず、真理を抑圧することもできません。神の王国の進展を止める力は彼らにはありません。これは、詩篇の作者の言葉が思い起こされます。「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。』天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。」(詩篇2:1-4) イザヤ54章17節には「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。」とあります。主イエスは、マタイ16章18節で「…わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と述べられました。教会は前進し続けています。地上や地獄から来るいかなる力も、それに対して勝利することはできません。私たちが主にひざまずき、戦い続ける限り、何も私たちを止められません。それが私たちの戦略であり、力であり、優位性であります。 反対が起きても、私たちは心配したり、恐怖に屈したりしません。祈りを通して、神からの知恵、洞察力、解決策を受け取ります。私たちの内なる人は、主の御霊によって力強く強められます。この終わりの時代において、福音をためらわずに宣べ伝えましょう。今年、私たちはすべての国々に福音の宣教を完了しています。私たちは、御霊と力の示しの中で、確信を持って福音を宣べ伝えています。何ものも、誰も私たちを妨げることはできません。 祈り愛する父よ、大胆さと信仰をもって、聖霊と力の現れによって、福音宣教を行う特権、機会、恵み、力を与えてくださり、感謝します。主の御言葉は国々から勝利し、義がすべての人々に降り注ぎます。主の子たちは、今日、世界中で福音宣教を行い、多くの者の救いのために喜びに満ちています。イエスの御名によって祈ります。アーメン。 参照聖書(イザヤ 54:17 AMPC) しかし、あなたがたに敵対するいかなる武器も栄えることはなく、裁きにおいてあなたがたに敵対するあらゆる舌は、あなたがたが間違っていることを示すであろう。これ[平和、義、安全、敵対に対する勝利]は、主のしもべたち[主の理想的なしもべが再現される人々]の受け継ぐものであり、これこそ、彼らがわたしから得る義、あるいはあがない[これこそ、わたしが彼らの義として彼らに与えるもの]である、と主は言われる。 (使徒 26:14) 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』 (使徒 2:44-47) 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

福音はあなたの第一の焦点であるべき | 御言葉の実在

2025年8月19日(火)福音はあなたの第一の焦点であるべきThe Gospel Should Be Your Primary Focus 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33) 福音は神の第一の優先事項です。福音は神にとって最も重要なことです。なぜなら、福音の中に神の義が明らかにされるからです。(ローマ1:17)神は福音を通して、命と不滅を明らかにされました。(2テモテ1:10)聖書は言います。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 神は、世の罪のためにイエスを遣わし、イエスを信じる者が命を得るようにされました。これ以上に重要なことはありません。これが、あなたが福音を第一の優先事項にしなければならない理由です。聖霊の熱意と情熱をもって、至る所で福音を宣べ伝えてください。福音をあなたの最優先事項とすれば、あなたの人生とあなたに関する全てが天の焦点となります。あなたの家は神の司令部となり、神の活動の中心となり、御使いたちが絶えず出入りし、神聖の使命を遂行するようになります。 福音をあなたの最優先事項とすれば、常に神聖の恵みの中を歩むことができます。あなたが何かを望む瞬間、天はそれを用意します。なぜでしょうか? 御使たちはあなたが求めるすべてが供給されるように確実に支持されているからです。詩篇の作者が書いたようになるのです。「主は私の羊飼い。私に乏しいことはありません。」(詩篇23:1) さらに、福音があなたの焦点である時、神の聖なる御使たちはあなたと共に働き、反対を打ち破り、敵を制圧します。聖書は言います。「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」(詩篇91:10-11)これが魂を救う者の人生です。神の使御たちは常にあなたのために働き、すべてがあなたの利益になるようにします。ハレルヤ! 告白福音は私の最優先事項であり、私は聖霊の情熱と熱意をもって、どこででも福音を宣べ伝えます。その結果、御使たちは私の内と私の周りで働き、私が必要とするすべてが供給されるようにします。私は勝利のうちに歩み、私に対して向けられたいかなる武器も繁栄しないことを知っています。私は神聖の知恵と恵みをもって機能し、神の王国を地上に広げていきます。イエスの御名によって祈ります。アーメン。 参照聖書(1コリント 9:16) というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。 (2 コリント5:18-19) これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。 (マルコ16:15-16) それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

あなたはキリストの内に生きる | 御言葉の実在

2025年8月18日(月)あなたはキリストの内に生きるIn Him You Live 「 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」(ヨハネ3:14) 民数記21章には、イスラエルの民が反逆と不信仰のゆえに毒蛇に噛まれ、多くの者が死んだことが記されています。彼らはモーセのもとへ行き、主へ祈って毒蛇を取り除いてくれるよう懇願しました。 モーセは民のために祈り、神はモーセに青銅の蛇を作り、それを旗ざおの先につけるよう命じられました。神はモーセに、蛇に噛まれた者は青銅の蛇を見上げれば癒されると告げられました。モーセは神の命令に従い、青銅の蛇を作り、旗ざおの先につけました。蛇に噛まれた者が青銅の蛇を仰ぎ見れば、生き延びました。彼らはただ「見る」だけで生き延びたのです。 ヨハネ3章14節で、イエスはモーゼが荒野で掲げた青銅の蛇とご自身の十字架の死を比較されました。イスラエルの民が毒蛇の噛み傷から癒されるために青銅の蛇を見上げたように、イエスはご自身を信じるすべての人々が永遠の命を得るために、十字架に掲げられる必要があると言われました。「モーセが荒野で蛇を掲げたように、人の子もまた掲げられなければならない。」(ヨハネ3:14 NKJV) 古い賛美歌の作詞家、ウィリアム・A・オグデンは、この真理を賛美歌「見よ、そして生きよ(Look and live)」に表現しました。あなたの代わりに立ち、十字架上のイエスを見てください。あなたの悲しみ、痛み、失望、病気、失敗を取り去る方を見てください。しかし十字架を越えて、イエスが生きていることを見てください。イエスが生きているからこそ、あなたも生きるのです。イエスの内に、あなたは神聖の生きた実存する性質である永遠の命を持つのです。 使徒ヨハネは聖霊によって、主イエスについて次のように述べました。「—このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。—」(1ヨハネ1:2)使徒の働き17章28節「… 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」と語るのも不思議ではありません。1ヨハネ5章11節から12節(NKJV)「これが証しです。神は私たちに永遠の命を与えられ、その命は神の御子の中にあります。御子を持つ者は命を持っています…。」御子の内にあなたは命を持っているのです。神を褒めたたえます! 祈り愛する父よ、キリストにおいて私は生き、動き、存在していることを感謝します。私は信仰の創始者であり完成者であるイエスに目を向けます。私はイエスの完了した御業の実在の中で、病気、失敗、死に勝利して歩みます。私は永遠の命を持ち、今日、力と勝利の中を歩みます。イエスの御名によって祈ります。アーメン。 参照聖書(民数記21:8-9) すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。 (イザヤ 45:22) 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。 (1 ヨハネ5:11-13 NKJV) そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

根気強く祈る | 御言葉の実在

2025年8月17日(日)根気強く祈るPersist In Prayer 「絶えず祈りなさい。」(1テサロニケ5:17) 祈りは、クリスチャンとして私たちが行う司祭の務め、あるいは奉仕や働きの一部です。したがって、あなたは祈りの人である必要があります。祈りにおいて粘り強くなければなりません。これは絶対必然的なものです。あることは、あなたが祈るまで変わらないでしょう。それは、祈りには力と影響力があるからです。 黙示録5章8節は、私たちの祈りについて力強いことを示しています。そこには、「…四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。」と記されています。旧約聖書では、主は祭司に幕屋で朝夕に香を焚くよう命じられました。しかし、聖書はそれらが来たるべきものの影であったと述べています。(ヘブル10:1) 多くの年を経て、使徒ヨハネは御霊によって天の領域を見て、この驚くべき真理を示されました。「…この香は聖徒たちの祈りである。」あなたが地上で祈る時、その祈りは主の前に香として捧げられます。ダビデ王はこれらについて啓示を受けていたのです。主がダビデに、私たちの祈りが実際に神の御前に香として捧げられることを理解させました。そのため、詩篇141篇2節で、彼は「…私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」と述べました。 あなたのとりなし祈りは神に届き、敵の計画を打ち破り、天の領域で変化をもたらし、この地上に肯定的な変化をもたらします。だからこそ、常に祈るべきです。今日の冒頭の聖句は「絶えず祈りなさい」と述べています。祈りを真剣に受け止めれば、あなたの人生における変化と、あなたの内と、あなたの周囲で聖霊のより大きな影響力と臨在に驚かされるでしょう。 可能な限り、他のことから離れ、祈ってください。機会があれば、常に異言で祈ってください。もし何らかの理由で予定した祈りの時間を逃した場合は、すぐにその後で祈ってください。ヤコブ5章16節には、「義人の真剣な(心からの、絶えない)祈りには非常な力が与えられるのです。[力強い働きをします。]」(詳細訳)とあります。 したがって、根気強く祈ってください。「昨日祈ったから、今週は大丈夫。」と言わないでください。そうではありません!私たちは絶えず祈るように命じられています。祈りの重要性はこれまで以上に高くなっています。したがって、私たちは教会が携挙される前に、救われるべき最後の魂が救われ、王国に導かれるまで、祈りを継続しなければなりません。 祈り愛する父よ、祈りの特権と力に感謝します。この祈りを通して、私の霊は神の完全な御心と調和し、ますます栄光に満ちた歩みを続けることができます。私の生涯はあなたの御霊によって導かれ、常に強められ、導かれ、成功のために位置付けられています。なぜなら、私は常に勝利と栄光の立場で行動するため、どんな状況も私にとっては不可能ではないからです。イエスの御名によって祈ります。アーメン。 参照聖書(ルカ18:1) いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。 (コロサイ 4:2) 目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。 (使徒1:13-14) 彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

ためらわずに神の言葉を実践せよ | 御言葉の実在

2025年8月16日(土)ためらわずに神の言葉を実践せよAct On His Word Without Hesitation 「母は手伝いの人たちに言った。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』」(ヨハネ2:5) ヨハネの福音書2章1節から11節において、聖書は主イエスの最初の奇跡の驚くべき話を伝えています。ガリラヤのカナで行われた結婚式で、祝宴が盛り上がりを見せる中、ぶどう酒がなくなってしまい、主催者にとって恥ずかしい状況になりました。イエスの母マリアは、解決策を求めてイエスに頼りました。 イエスは母マリアに「わたしの時はまだ来ていません」と言いましたが、マリアは手伝いたちに信仰の深い戒めを与えました。母マリアは「あの方が言われたことを、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2:5)と言いました。主イエスは彼らに石の水がめ六つに水を満たすように言われました。彼らは疑問を抱くことなく従い、水がめを縁まで水を満しました。その後、主は「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」(ヨハネ2:8)と言われました。 彼らは躊躇することなく、イエスの指示に従いました。宴会の支配人がそれを味わうと、その上質なワぶどう酒の味わいに驚嘆し、その出所を知りませんでした。かつて普通の水だったものが、最高級のぶどう酒に変えられたのです。これは、神の言葉に従うことの重要性を示しています。 もう一つの印象的な例は、マタイ17章で、主イエスはペテロに、湖へ行き、釣り針を投げ、最初に釣れた魚を取りなさいと命じられた場面です。主はペテロに、魚を取って口を開けると、税務官が要求した税金を支払うのに十分な銀貨が見つかるだろうと告げられました。 ペテロは「主よ、それは不可能です」とは言いませんでした。むしろ、彼はそのような指示の論理を疑ったり質問したりすることなく、ただ信仰に基づいて行動しました。そして、主の言葉通り、ペテロは最初に釣った魚の口の中に銀貨があったのです。 神の言葉について、あなたの信仰をもって行動してください。神聖の指示を理屈で説明しようとしてはいけません。神の言葉は論理、科学、技術を超越しています。主が語られる時、その言葉は絶対的なものです。躊躇することなく、その御言葉に従ってください。主の言葉と指示の中に、あなたの奇跡、証し、供給、平和、喜び、勝利があるのです。ハレルヤ! 祈り愛する父よ、父の言葉の力に感謝します。私は主の指示に躊躇なく従うことを選びます。なぜなら、その中に私の奇跡、証し、供給、変革、祝福が存在するからです。私の信仰は主に堅く根ざしており、今と永遠に、主と主の不変の言葉に絶対的な信頼を置きます。イエスの御名によって祈りますアーメン。 参照聖書(ヨハネ2:7-11) イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。 (ルカ5:5-6) するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。 (イザヤ55:10-11) 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

無限の権威 | 御言葉の実在

2025年8月15日(金)無限の権威Unlimited Authority 「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」(ヨハネ14:13) イエスの名において、私たちができることに限界はありません。私たちの可能性、能力、強さ、知恵、支配権、そして力は無限です。なぜなら、私たちはイエスを代表するからです。私たちはイエスの名において生きています。イエスの名において、私たちは何でも成し遂げることができます。これが、あなたが勇敢で、大胆に、決して被害者のように振る舞わないべき理由の一つです。キリストにおいて、あなたは圧倒的な勝利者だからです。 主イエスが冒頭の聖句で言われたことをもう一度読みましょう。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」イエスの名だけが無限の権威を握っています。イエスの名は、絶望的な状況を変え、すべてを可能にする力です。何と素晴らしい名前でしょうか! 聖書はこう書いてあります、「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:9-11)また、マルコ16章17節から18節で、主ご自身がこう言われました。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」 これは非常に素晴らしいことです。どのような状況であっても、イエスの名によって、あなたは奇跡や証しを得ることができるからです。これであなたは、ペテロが足の不自由な男に大胆に語りかけ、イエスの名によって立ち上がるように命じた理由が理解できるでしょう。ペテロは彼にイエスの名において立ち上がれと命じました。その結果、その男の不自由な肢体は力を得ました。(使徒3:1-8を参照) 悪魔はそれを止めることはできませんでした。その人は跳ね上がり、歩いたのです。どうやってできたのですか?それは、イエスの名によってです!イエスの名はすべての名にまさり、その名によって、あなたはすべてに対する権威を持つのです。したがって、この世界で支配し、権威を行使してください。神をほめたたえます! 祈り愛する父よ、イエスの名においてこの世界で支配し、権威を行使する力を与えてくださり感謝します。イエスの名において、私は悪霊を追い出し、病人を癒し、勝利のうちに歩みます。その栄光ある名における権威の内で働く私にとって、不可能はありません。イエスの名を用いる特権と、今日勝利のうちに生きることを感謝します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。 参照聖書(使徒3:1-8) ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。 (マルコ16:17) 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 (ピリピ2:9-11 MSG) 9 それゆえ、神はイエスを高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべての者がひざまずき、11 また、すべての舌が、父なる神の栄光のゆえに、イエス・キリストが主であることを認めるためなのです。

利便性の良さの問題ではない | 御言葉の実在

2025年8月14日(木)利便性の良さの問題ではないIt’s Not A Matter Of Convenience 「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(へブル10:25) 聖書は、私たちが教会での礼拝に物理的に出席すること、つまり現地での参加を非常に真剣に受け止めるよう強く命じています。この戒めを無視する者は誤っており、倣うべき人ではありません。多くの人々はオンラインでの礼拝参加に慣れすぎてしまい、オンライン教会礼拝の本来の目的を見失っています。オンライン礼拝は、あなたが教会に物理的に出席すべき時間に代わるものではありません。 教会礼拝のためのオンライン代替手段を提供するのは、単なる利便性のためではなく、やむを得ない事情のために、物理的に出席できない人々にとっての必要性として意図されたものです。これは、単に「教会に行く気にならない」人々のためではなく、何らかの理由で本当に出席できない人々のためのものです。 したがって、教会に物理的に出席できる時は、必ず出席しなければなりません。自分の教会がある地域から出張やその他の理由で移動した場合、移動先の町や都市に教会がない場合は、自分の教会のオンライン礼拝に参加することは理解できます。 しかし、その場所にあなたの教会の支部がある場合、訪れて自己紹介し、そこの聖徒たちと交わりに参加すべきです。指導者たちは、メンバーが単にオンラインで参加するよりも、旅行先の都市の教会に出席するよう促すべきです。その地域に教会があるにもかかわらず、聖徒にオンラインのみにアクセスするように言うのは適切なアプローチではありません。最寄りの教会が遠すぎる場合は、理解できます。 しかし、そのような場合でも、私たちは新しい教会を建てる積極的な取り組みが必要です。多くの教会の支部は、旅行先で既存の支部がないことを知ったメンバーが、自ら支部を設立したことから始まりました。その後、彼らや他の人々がその地域を訪れたとき、すでに教会が存在していたのです。 私たちは、オンラインソリューションを単なる便利なツールとみなして安住してはいけません。クリスチャン同士の交わりは不可欠であり、可能な限り、すべてのクリスチャンは教会に物理的に出席する必要があります。 告白私は、他のクリスチャンとの集いを軽視することを拒みます。なぜなら、私たちの集いにおいて、恵み、力、知恵が与えられることを知っているからです。私は知恵に従って歩み、主が教会に定められた構造と秩序を尊重すると、私の人生に神の祝福の現れがますます増し加わります。イエスの御名によって。アーメン。 参照聖書(ヘブル 10:25 CEV) 礼拝のために集まる習慣を失ってしまった人もいますが、私たちはそうしてはなりません。特に主の再臨の日が近づいていることを知っているのですから、互いに励まし合い続けるべきです。 (使徒 2:42) そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。 (詩編 122:1) 人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。 (マタイ18:20) ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

私たちは働きの最中に能力を築く | 御言葉の実在

2025年8月13日(水)私たちは働きの最中に能力を築くWe Build Capacity While Doing The Work 「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35) 一部の人々は、魂の救いに効果的になるためには、まず単独で能力を築く必要があると考えています。しかし、真実を言うと、魂の救いにおいては、その働きをしながら能力を築いていくのです。 主は「まず能力を築き、それから全世界に出て行ってすべての創造物に福音を宣べ伝えよ」とは言われませんでした。違います!むしろ、主ははっきりとこう言われました。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)またマタイ28章19節から20節でも、主は「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。…」と言われました。主は「まず力を築け」とは言っていません。 すでにあなたには真の力の源である聖霊がおられます。聖霊があなたの内に住んでおられるので、効果的な伝道に必要な能力は既に備わっているのです。聖霊はあなたを効果的な魂の救い手とするために来られたのです。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8) 魂の救いは、始める前に別の「特別な」準備が必要なものではありません。2コリント3章5節から6節にはこう述べています。「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。 神は私たちに、新しい契約に仕える者となるで資格をくださいました。」考えてみてください!聖霊はすでにあなたを新しい契約の有能な奉仕者とされたのです。聖霊はすでにあなたの力を築いてくださいました。あなたがすべきことは、ただ踏み出すことです。 あなたがより多くの魂を救えば救うほど、主はあなたがより多くのことを成し遂げることができるように恵みを加えてくださいます。したがって、働きながらより大きな力を築いていきましょう。これが、信仰が成長し、奉仕における結果が向上する仕組みです。常に断食し、祈り、御言葉を学ぶ時間を取ってください。これらすべてが、魂の救いと伝道へのあなたの情熱を燃え上がらせる燃料となります。主が再び来られる時、あなたが王国のメッセージを至る所に広めているのを見出されますように熱心に働きましょう。 祈り愛する父よ、福音の知恵と緊急性に感謝します。私は、魂を救うたびに、より大きな働きをするために強められ、備えられると宣言します。私は福音の働きに励む中で能力を築き、主の召命を果たすために効果的なのです。主の王国で実り多い奉仕者として私を造ってくださり感謝します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。 参照聖書(マタイ28:19-20) それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (2 テモテ4:2) みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。 (2コリント 3:5-6 AMPC) 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身に(十分その能力が)あるというのではありません。私たちの資格[実行力]は神からのものです。神は私たちに、[キリストによる救いの]新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字[すなわち、書き記された律法]に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。 (使徒 1:8 ) しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

知恵は知能にはるかに勝る | 御言葉の実在

2025年8月3日(日)知恵は知能にはるかに勝るWisdom Is Greater Than Intelligence 「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。」(箴言8:11) サタンとその悪魔たちはとても知能が高いが、賢明ではありません。知能と知恵には大きな違いがあるのです。知能が高いとは、高度な推理能力を持つことです。あなたは賢い者です。あなたは鋭い思考をすることができます。あなたは計算的で分析的であり、あなたの脳は効率的に働くのです。しかし、知恵は異なるものです。 知恵は啓示です。知恵はあなたの脳とは無関係です。知恵は実際のことへの洞察力です。あなたが新しく生まれた時、キリストがあなたの知恵となったのです。「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、…」(2コリント1:30)あなたは単なる人間の知能ではなく、神聖の知恵によって機能するのです。 知能は、その最良の状態でも、極めて限定されています。1コリント2章7節から8節には、こう書かれています。「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」この箇所が何を意味するのか分かりましたか? サタンとその仲間たちはすべてを知らないのです。そのむれは、あなたやあなたの未来についてすべてを知りません。サタンは人間の行動のパターンを観察し、解釈することができるかもしれませんが、実在についての洞察力はありません。あなたが言葉や行動を通じてサタンに知らせない限り、彼はあなたのすべての動きを予見する能力は持っていません。 神の知恵に従って生きることで、あなたはサタンとその悪魔たちを出し抜き、神の目的に堅く根付かせた安全な人生を送ることができます。したがって、この世の知能、システム、構造、経済に従って生きることを拒絶し、知恵に従って歩むことを選んでください。神の言葉を思い巡らせ、あなたの内の聖霊の声を聞いてください。なぜなら、神の言葉は神の知恵であり、キリストはあなたの知恵だからです。ハレルヤ! 祈り愛する父よ、私に神の知恵と実在への洞察力を授けてくださり、ありがとうございます。私は父の御心に関する知識で満たされ、すべての知恵と霊的な理解を持っています。今日、私は勝利と神聖の洞察力の中で歩みます。イエスの御名によって祈ります。アーメン。 参照聖書(ヤコブ1:5) あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。 (コロサイ 1:9) こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。 (1 コリント2:6-8 NKJV) しかし、私たちは成熟した人々の間で知恵を語りますが、この時代の知恵や、無に至ろうとしているこの時代の支配者について語るものではありません。しかし、私たちは神秘の中で神の知恵、神が隠した知恵を語ります[ある]私たちの栄光のために時代より前に定められ、この時代の支配者の誰も知らなかったこと。対して知っていたら、彼らはしなかったでしょう栄光の主を十字架につけました。