2026年1月18日(日)
神聖による交換
A Divine Exchange
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)
冒頭の聖句から、キリストにおける私たちの義について驚くべき真実が浮かび上がります。義は神聖の交換のわざによる産物なのです。主イエスが十字架上であなたの代わりになられたとき、主はあなたのために罪となり、罪人ではなく、罪のためのいけにえとなられたのです。主はあなたの罪の性質を引き受け、ご自身の義によってあなたが義と認められるようにされたのです。
これは歴史上最も偉大な取引です。ですから、イエス・キリストの福音は「贖いの福音」と呼ばれるのです。神は、罪を知らない主イエスを、あなたのために罪とされました。それは、あなたがキリストにおいて神の義とされるだめでした。これは完全に法的に正当な行為でした。主イエスは、正義が求めるすべての義の要求を満たされたのです。
1ペテロ3章18節はこう言います。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。…私たちを神のみもとに導くためでした。」罪を知らない方が私たちの代わりに罪となられたことが完全に合法であったように、正しいことを何も成し遂げたことのない罪人が、イエスの御名によって義と宣言されることも、完全に合法なのです。今、神はキリストにあるあなたを聖なる者、非難されるところのない者、義と認められた者として見ておられます。
ローマ4章24節から25節は、主イエスが私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために復活されたと記しています。したがって、あなたの義は、道徳的な努力や良い行いの結果でも機能でもありません。またあなたが成長して身につくものでもありません。それはあなたが新しく生まれた瞬間にあなたの霊に授けられ、あなたに神との正しい関係と、正しく行い、正しく生きる力を与えるのです。ハレルヤ!
この理解を持つことなら、神との歩みのすべてを変えます。それはあなたの祈りと告白に大胆さをもたらします。もはやあなたは、憐れみを求める罪人としてではなく、愛する天の父に愛された子として、義によって、恵みを通して、支配する者として神に近づくのです。
この自覚をもって歩んでください。恥や罪意識が父との交わりを奪うことを拒んでください。あなたは主の恵みによって、値なしに義と認められたのです。ですから、大胆に立ち、イエス・キリストを通して命にあって支配してください。「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」(ローマ5:17)ハレルヤ!
告白
私はキリスト・イエスにある神の義であり、この真理の自覚の中で生きています。私はイエス・キリストの信仰によって大胆さと確信をもって主に近づくことができます。罪、恥、罪意識は私に対して何の力も持ちません。私は義による恵みを通して、いのちにあって支配しているからです。ハレルヤ!
参照聖書
(ローマ5:17 AMPC) もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物[神との正しい関係に置くもの]とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
(ローマ 3:21-26) しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
(ピリピ 3:8-9) それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。



