2026年3月4日(水)
私達は神を賛美するために拍手はしない
We Don’t Clap To Praise God
「 私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」(詩編141:2)
神の家のうちにおける、奉仕の霊性と、音楽や礼拝表現の位置づけを理解することは重要です。例えば、教会で多くの人がよく慣れ親しんでいる拍手は、賛美でも礼拝でもありません。拍手自体が間違っているわけではありませんが、適切な場所で、適切な位置に置く必要があります。
拍手は喝采(かっさい)であり、賛同や興奮の表れです。しかし、霊的には、神を賛美したり礼拝したりすることとは同義ではありません。「イエス様に拍手を」という言葉を耳にしたことがあるでしょう。しかし、聖書が教える主への礼拝や賛美の方法として、拍手は挙げられていません。真の礼拝は言葉、霊の歌、そして神への畏敬の念をもって手を上げることで表現されるのです。
例えば、冒頭の聖句から、手を上げる行為が天で認められる礼拝の行為であることは分かりました。しかし、拍手が賛美や礼拝の行為だと語る聖句は存在しません。故ケネス・E・ヘーゲン牧師はかつて、主イエスが御自身に現れて「拍手は賛美でも礼拝でもない」と告げる幻を共有しました。多くの人はこれを誤解し、拍手が間違っていると解釈しました。しかし、彼は単にその真の位置付けを説明していたのです。拍手は礼拝ではないということです。
奇跡が起こったとき、人々が拍手することは、神を賛美しているのではなく、単に賛同や興奮を表現しているのです。問題なのは、そうした行為によって、奇跡の結果として神に捧げるべき真の礼拝を怠ってしまうことがある点です。だからこそ私たちは御言葉によって教えられねばなりません。礼拝は常に知識に根ざすものであって、単なる習慣であってはならないのです。
したがって、拍手は出来事に対する人間の反応としてその役割を持ちますが、真の賛美と礼拝はあなたの霊から生まれ、言葉や歌、手を上げる行為、聖書が語るその他の礼拝の表現を通して示されなければならないのです。これこそが主を栄光に帰するものであるのです。
祈り
愛する父よ、真の礼拝の理解と、私たちが御霊によって主を礼拝し、キリスト・イエスにあって喜び、肉に頼らない真の割礼の民であるという啓示に感謝します。今この時も、私は心の底から主を礼拝します。主は唯一の真の神、義なる方、聖なる方、公正な方、恵み深い方、清く優しい方だからです。私の人生における主の栄光に感謝します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
(ヨハネ4:23-24) しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
(詩篇63:3-5 NIV) あなたの愛は命よりも尊いゆえ、わが唇はあなたを賛美します。生きている限りあなたをほめたたえ、御名のもとにわが手を挙げます。最も豊かな食物のように満たされ、歌う唇をもってわが口はあなたを賛美します。
(詩篇9:1-2) 私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。



